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旧広島陸軍被服支廠の保存問題について考えた

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辻隆広氏より許可を頂きましたので掲載します。


「旧広島陸軍被服支廠の保存問題について考えた」(『歴史地理教育』2022年2月号 歴史教育者協議会編集発行)
※もと原稿 2と3を読んでください。

『歴史地理教育』2022年2月号 本文には(「2 日清戦争・原爆攻撃」「3 1945年以後、陸軍被服支廠が立つ街」が雑誌掲載時には含まれていない)

雑誌掲載内容はこちらからお読み頂けます

*発行者からの掲載許可済み

☆旧広島陸軍被服支廠の保存問題について考えた      辻隆広(広島県歴教協) 

はじめに 2019年9月

旧広島陸軍被服支廠に行ったことがありますか。私は比較的よく知られた歴史的建造物だと思っている。

平和記念公園(または原爆ドーム)からも、JR広島駅からも距離的にそう遠くない(自転車ならあっという間に着く)。

よく知られていた陸軍被服支廠だが、最近注目が高まっている。2019年9月県議会で、広島県は「地震が起これば周囲の民家や通行人に被害が及ぶ恐れがある」と発言し、12月に「一号棟の外観保存、二・三号棟の解体」を原案として出したからだ。広島県は「安全対策」と「被服支廠の価値を認めつつ、適切な規模で保存し、積極的に活用していく」と説明した。背景に財政問題があった。

被爆から75年を前にして、今までの経過を無視した広島県の唐突な発言だった。そこから私自身も改めて陸軍被服支廠と向き合うことになった。

陸軍被服支廠を保存することにどんな意味があるのか。私はその課題を考えるためには、現地見学を今まで以上に工夫する必要があると考えた。①発見があること ②ねらいを明確にすること、がそれだ。

1 軍都広島に向き合う

※私は「軍都広島」を日本全国が「軍都」の時代であることを前提に使う。

現地見学に二つの方法が必要だ。その一つは、被服支廠を訪れて、現在残っている建造物を端から端まで歩くこと。もう一つは、北にある比治山にあがって、いわゆる「陸軍墓地」から被服支廠を展望することだ。

さて、まず「歩くこと」だ。

旧広島陸軍被服支廠は広島市南区出汐にある。戦前は庶務部・工場部・倉庫部などからなり、正門右手には14棟の倉庫が並んでいた。かなり広大な施設(軍事施設)だ。様々な事情から現存するのは、敷地南側に位置する10番庫(国所有)と西側に位置する11~13番庫(県所有)の鉄筋コンクリート・レンガ造三階建計4棟である。ちなみに広島県は逆に北から1~4号棟と名付ける。また、1~4号棟とも広島市によって被爆建物に登録されている(1993(平成5)年)。

棟の長辺は約100m、幅約25m、高さは17m、1~3号棟間は建物だけで約300m、4号棟を入れると425mになり、歩くと10分ほどかかる。スケール感に圧倒され、たくさんの発見がある。(写真1)

できれば、高校の敷地を眺めながら南側を、あと200mほど旧宇品線までたどると、往年の規模がより理解できる(写真2)。敷地内に入ると、1945年8月6日以降、原爆攻撃による被爆者の救護所であった、死ととなり合っていたその空気を感じることができると思う。(参考:広島市郷土資料館など)

つぎに、「陸軍墓地から展望する」ことだ。日本の(広島を含む)戦争の歴史のなかに、位置付けるというねらいが明確になる。

軍都としての広島の歴史的画期は、日清・日露戦争だが、実は被服支廠はその時まだ建設されていない。日露戦争下、1905年4月に陸軍被服支廠広島派出所が設置、1908年に東京の本廠、大阪・広島の支廠の体制になる。現存するのは広島のみである。また現存する4棟は1913年に建造されたものだ。

陸軍被服支廠を「歩く」ことで、軍国日本の時代、軍隊が大きな存在であることが迫ってくる。そして、「比治山陸軍墓地」では近現代の戦争の歴史的事実を見ることができる。

戦後の日本では、国有でも市有でもない比治山の陸軍墓地にも、歴史があり、日清戦争時の中国兵捕虜の墓がある。その墓地からは被服支廠が展望できる。また、南西約1kmに、御幸橋近く、「平和塔」実は「日清戦争凱旋碑」が高くそびえている。約16mの塔のうえにある金鵄(きんし)の像が日清戦争の勝利に盛り上がる広島市民の姿を今に残す。(写真3)

侵略戦争にのめりこみ、日本は大規模な軍拡へ突き進むことになる。それが陸軍被服支廠が建設される時代だ。でも今の私たちは、戦争遺跡を深く知ることで、時代の別の姿を知ることができる。

日清戦争では、日本軍による朝鮮への侵略や、朝鮮の農民軍の虐殺が行われ、その主力は広島から出兵した広島第五師団であることを知ってほしい。

2 日清戦争・原爆攻撃

陸軍被服支廠前史である、日清・日露戦争と広島のかかわりは是非知ってほしい。

日清戦争は日本が仕掛けた戦争であることは現在明らかになっていると考えている。1889(明治22)年に竣工した宇品港(現広島港)を、大規模な海外出兵の基地とし、軍隊の移動は途中から、1894年6月に完成した山陽鉄道の終着駅(広島)を、(広島は、広島城を中心に1886(明治19)年、第五師団が置かれ、「富国強兵」日本の軍事基地だった)大いに利用した。また、そのために、8月には土地を強制的に買い上げつつ、2週間ほどで軍用鉄道(後の宇品線)を敷設し、広島駅から宇品港への軍事動員を強力に進めた。

その少し前、7月には日本は朝鮮国へ一方的に攻撃を仕掛け、王宮を占領する。主力部隊は第五師団であった。

広島市は人口を超える、想像できないほどの多くの兵隊が集結し、大混乱したと記録にある。

一方日本軍兵士は、十分な、食糧も医療も軍服も兵器もそろわず(特に冬の装備がなく、凍死も多かった)、大陸の前線は悲惨であった。

日本はこの戦争をしっかり進めるために、政府そのものを臨戦地広島に進めた。つまり初めて設置した戦争の司令部(大本営)を、1894年9月に広島市へ移動させ、広島城内に置いた。この大本営が解散するのは台湾侵略戦争が終了してのち1896年4月であった。

大本営設置に伴って、大日本帝国憲法下で天皇・政府・帝国議会が広島に移り、臨時の首都の様相を見せた。それまで、「民力休養(地租軽減など)、政費削減」を主張し、明治政権と対峙していた民党(自由民権運動の流れをくむ政党)が、その第7回臨時帝国議会では、日清戦争を進めるための軍事費に全会一致で賛成した(伊藤博文内閣)。このとき東アジアを侵略する、軍事国家政策に心躍らせる「国民」が誕生したと歴史的に評価されている。

そして、戦場では、朝鮮国の改革を求める、朝鮮の農民軍(いわゆる甲午農民戦争で知られる)を虐殺するなど、日本軍は侵略軍の姿を露骨に見せていた。

日清戦争は物理的な戦争は日本が勝利した。一方、大きく見ると外交的には、欧米列強の三国干渉を呼びこむという失敗(敗北)をした。でも明治政権は失敗をごまかし、「ロシア憎し」(臥薪嘗胆)と新しく誕生した「国民」を誘導し、軍拡路線を成功させる。日本が朝鮮や台湾を支配し、東アジアで帝国主義国をめざす軍拡の時代に建設されたのが、陸軍被服支廠だと私は位置づけている。

1945年8月6日に、国際法違反の非人道兵器、原子爆弾(核兵器)の、アメリカによる攻撃をうける。

陸軍被服支廠は、爆心地から約2.7kmにあった。どうにか建っていた建物は救護所として多くの被害者を受け入れた。

3 1945年以後、陸軍被服支廠が立つ街

被爆から76年、旧陸軍被服支廠は様相を変えながら建ち続けている。もともと、江戸時代以来干拓地で見渡す限り湿田やレンコン田(明治初期は綿畑)だった土地を盛り土して固めて建設された。現在残っている4棟の西側や南側は細い生活道で、静かな住宅街なので、気づかれないが、実は1960年頃まで、やはり周辺にはレンコン田が広がっていた。季節になると白い(ピンクの)花が咲きほこっていた。戦後復興期の広島市の人口を吸収して成長してきた街が、旧被服支廠が建つ広島市南区皆実町・出汐町・翠町あたりである。それを歴史的にちょっと引いてみると、冷戦下の朝鮮戦争による戦争特需(景気)で、日本の産業・経済は息を吹き返し、1965年からはベトナム戦争の影響を受けた好景気、それらをバネに、1955年頃から高度経済成長を経験する。それは、アメリカ経済、日米安全保障条約、在日米軍基地との関連を意味している。

南区(1980(昭和55)年設置)の三つの町は、経済成長の中で、広島市の住宅地としての様相を見せ始める。戦前からの公立小学校(皆実、大河)があるが、例えば皆実小学校の児童数は急増し、1958(昭和33)年には戦前の2倍の児童数になって、新しく1校増えた(翠町小学校1967(昭和42)年開校)。復興期から高度経済成長期、地域の風景が変わるのを、牽引したのが走り回るダンプトラックだった。500年前の戦国時代、広島湾を押さえて名をはせた海の領主の島・仁保島はずっと以前に陸続きとなって黄金山とよばれ、この時期、山はどんどん削られていった。その土砂を効率的に運搬したのがダンプトラックだ。削られた山裾や山腹には新しい団地が次々と造られ、それらの土砂で次第にレンコン田は埋め立てられて、不規則に住宅へと変わっていったようだ(都市計画が未整備だった)。戦後の「新しい町」だが、生活道は不規則で細いという、今の旧被服支廠周辺の町の風景が生まれた。おまけに、旧住民と新住民では、国道2号線、宇品線(鉄道)、被服支廠西にある南北に走る大きな道路(広島市道中広宇品線)がある時代とない時代では、町の景観意識が異なり、町の様相がまるで違って見える。

旧陸軍被服支廠はこの時代の変化の中で、今は4棟しか残っていない。高校の校舎として利用されたり、広島大学の学生寮だったり(~1995年)、日本通運の倉庫として使用されたり(~1995年)様々に活用されてきて現在まで建物として続くことができている。建設から108年、被爆から76年、もともと軍事施設ながら、この土地(もともとレンコン田)と街(もともと住居は少なかった)とともに歴史を刻んできた。その歴史の総体を「楽しむ」ことができるポテンシャルを持っている。

4 今、「ヒロシマ」の思想はあるのか

私が、教職を選んで、生まれ故郷の広島に居を移してから38年経つ。原爆問題と平和学習に取り組む中で、広島の社会で被爆建物の保存のとらえ方も、変わってきたことを感じる。

広島市の被爆建造物政策を初めとする平和推進政策は、被爆の実相を訴えるよりも原爆ドームが世界遺産になることが目標だったかのようだ。「世界のヒロシマ」として戦争と平和について人類普遍の課題を訴えるのは、一人ひとりの市民による個性的なパフォーマンス(平和活動)に依存しているところが大きいと考える(被爆当事者もその市民のひとり)。

行政としては、平和推進政策の多くは、広島のイメージアップによる観光の推進である。(写真4・5)

教育行政では、1996(平成8)年から始まる文部省による広島県教育に対する是正指導に屈服しての平和教育(原爆教育)つぶしが進められた。特設平和教育(原爆などをテーマに、教科・教科外の時間をまとめ取りして行う教育)はつぶされ、広島県のある小学校では校長が「わしの目の黒いうちには大久野島へは行かさん」と言った。広島市は今、平和教育プログラムを押しつけ(2013年開始)、自主的な平和教育の実践は衰えている。

5 2020年、陸軍被服支廠が保存に動き出した理由

そこで陸軍被服支廠である。被服支廠のうち3棟は県の所有であり、県は、1993年県の主催で保存・活用方策懇話会を開催して、保存に向けての答申を出しながら、一方的に凍結していた。そこに前述の2019年の騒ぎが起こった。背景には、財政問題から、広島県と市の押し付け合いがあった。

今、2021年、被服支廠は、県が全棟(3棟)保存方針を決め、保存活用のあり方を一応オープンなかたちで検討し始めたところである。ここまで県が方針を変えた原動力は、全く市民の運動の力だと言えるだろう。

安全対策と財政問題しかないのなら、私たちが住み暮らすまちって何だろう。まちの歴史って必要なんではないか、そう考えたり、感じた、少なくない市民がいた。

私は、広島県歴教協の一人として研究・学習や現地見学の講師に取り組んできた。「原爆遺跡保存運動懇談会にも関わっている。

同じく保存運動を進める「旧被服支廠の保全を願う懇談会」は2014年発足した。懇談会代表の中西巌さんは、中学生として被服支廠で勤労動員中に被爆した。「広島文学資料保全の会」や「アーキウォーク広島」などの市民団体や、平和学習ガイドとして学習を重ねる市民団体もある。

「被服支廠キャンペーン」(旧広島陸軍被服支廠倉庫の保存・活用キャンペーン)は被爆体験の継承などに取り組む若者たちが立ち上げたオンライン署名を進めるグループである(2019年12月発足・写真1)。Twitter、Facebook、noteで呼びかけるなど、声を上げている。リアル活動も豊か。まず、プラットフォームづくりを意識しているように感じた。語り合える場をつくろう、有意義な情報に出会える場をつくろうという運動だと思う。署名活動は2021年11月28日に終了し約5万筆が集まった。引き続き活動は続ける。

(参考:Twitter「オンライン署名を締めくくります」)

また、「被服廠の話を聞き隊」の取り組みがあった。被服支廠の近所の人たちから生の声を聞くことをねらいとした、温かい活動だと感じた(「隊」は近所の人もその一員)。

「キャンペーン」の若者たちは、次のように語っている。「惜しまれながら解体されたのか、保存に向けて県民が努力したのか、それとも何も関心を浴びずに解体されたのかということでは全く意味が違うと思う。」「また、地震など安全対策は大事、財政の問題も疎かにしてはいけない。だからといって、歴史的に価値がある建物を解体するのは違うと思う。そういうものを残す、または、残そうとする、みんなの意見を活かすそんなまちに住みたいと思う。」

6 安全対策の向こう側のまちづくり 2021年12月

2019年、広島県は、9月に「一部保存」方針を決めたうえで、12月13日に三棟の保存問題に関するパブリックコメントを募集する。12月18日に広島市長が全棟保存を求める意見を発表した。

2020年2月に発表されたパブリックコメントの結果は大きな波紋を呼んだ。この種のパブリックコメントでは前例のないのべ2444人という多数の意見が寄せられた。

三棟保存は61.1%、一部解体は35.8%、全体としては、広島県の原案反対、三棟保存賛成という結果が出た。一方、もう一つの注目点は、世代差である。広島市・県内の50代以上は全世代で三棟保存が一部解体を上回ったが、40代以下では、全世代で一部解体論が三棟保存を上回った。とくに20代では、61.6%が一部解体論に賛成だった。

年代が下の人は一部解体論が上回っている。3棟保存について若者が積極的に賛成する人が少ないことが想像できる。(広島県HP 「旧広島陸軍被服支廠の安全対策等の対応方針に係わる意見募集の結果について2020年2月10日」)

2021年10月、広島県は今までの国・県・広島市で構成する協議体を活かし、そこに有識者による懇談会や市民によるワークショップを接続して、これから2年にわたって(2022年度末)、保存・活用の方法を探っていくとしている(広島県HP)、また、財政も併せて県議会の議決が必要だ。しかし、現状では、被服支廠の価値を本当に尊重した方法になるかどうか未知数である。観光には目を向けるが、平和推進・学芸にはカネを使わない。広島もそんな都市のひとつになっている。

保存運動を進める市民の中でも、これからの若い世代が、納得できる保存のかたちを考え出さなければならないと考えている。県はこれを「保存・活用」とセットで説明するが、その「活用」が2021年の今まで残ってきた遺跡の価値を充分に認め、活かしたものにするよう、観光事業と同時に、原爆被爆・軍都の歴史・戦後の街の成り立ちを市民が学び、足を運びたくなる場所になるために工夫を凝らしてほしいと願っている。

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