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被爆遺産の点・線・面:鈴木雅和(筑波大学名誉教授)

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2020年5月20日

筑波大学芸術系 名誉教授 農学博士 鈴木雅和

はじめに

 旧陸軍被服支廠倉庫(以下被服支廠)の保全について,広島県が一部取り壊すという方針を表明したことを契機にいろいろ議論が進んでいます。私は,被爆樹木を研究している立場から,被服支廠の被爆遺産としての価値を考察し,保全についてどのような方法をとるべきか提案してみます。

私の被爆樹木研究

 私は,戦後の東京生まれ,東京育ちです。母親が18の時に東京大空襲に遭って,清澄庭園におばあちゃんと逃げ込んで助かったが,友達はみんな死んでしまったという体験を,私が36歳になって初めて知りました。そのぐらい戦争体験について疎かったのですが,その私が被爆樹木の研究をはじめるきっかけになったのは,2009年に縮景園の庭園写真を撮影に行って,被爆イチョウに出会ったことでした。その異形に背筋が凍り,同時に樹木から悲鳴が聞こえたようでした。それ以降,被爆樹木の写真を撮り続けているうち,被爆樹木当時170本のうち,移植されていない1本幹のもの29本が爆心地に向いて傾いていることに気づきました。統計的には0.1%有意でした。このことを人に話すと,「爆発したんだから外側に傾いているなら分かるが,なんで爆心地に向けて?」と不思議がります。

 被爆樹木は爆心地から半径およそ2km範囲に分布しています。それら被爆樹木の爆心地からの距離と方位によって,特有の障害が残されていることがわかります。そして,爆心地側の被害が大きいため伸びず,反対側は被害がやや少ないので,より伸びます。その成長度合いのわずかな差が積もり積もって,75年経ってみると,多くの被爆樹木の幹が爆心地に向いて傾いてしまうというわけです。移植された樹は,現在では見当違いの方角に傾いているのですが,育つ場所が変わっても体がかつての被爆時の方角を覚えてしまっているというわけです。実はこの現象は,長く広島で被爆樹木を見ている方々でも気が付かなかったことです。よそ者でも気づくことがあるということに免じて,今回被服支廠のことについて勝手な提言をすることをお許しください。

被爆体験の空間と時間

 被爆樹木の研究をする際に,関連する他の事柄についていろいろ勉強しました。もちろん被爆者の方々の貴重な証言や記録などに強い感銘を受けましたが,それ以外,たぶん私特有の感覚を申し上げると,それは空間と時間の問題についてです。現在となっては,被爆体験者はごく少数で,世界遺産である原爆ドームを訪れる外国人も含めて,広島や長崎には多くのよそ者が訪れます。彼らにとって,被爆体験というのは遠い昔の,全く別の場所でのお話で,土地勘も時間感覚も共有できないのが当たり前です。まして,平和記念資料館や原爆資料館を一歩出ると,そこには戦後75年を経て完全に復興した都市が広がっており,市民の平穏な日常生活が営まれています。まるで被爆などなかったかのような様相です。そのこと自体,全く喜ばしいことで,なんら異論を挟むものではないのですが,ただ一つ気がかりなのは,「原爆被害なんてたいしたことないじゃん!」という核兵器に対する過小評価です。

被爆遺産の点的特性

 原爆ドームは世界遺産として,被爆遺産を代表する存在です。一時は取り壊される可能性もありました。でも今となって,これを取り壊そうと考える人はいないでしょう。遺産価値に対する考え方は社会情勢によって変化するものですし,一度壊したものは二度と取り戻せないことを,肝に銘じるべきということを教えてくれます。長崎における浦上天主堂を例にひくまでもありません。

 原爆ドームはその遺産価値のパワーが大きすぎ,私にとってはブラックホール的存在です。つまり,他の全ての遺産価値を一点に吸い込んでしまい,外に吐き出さないのです。これが,先ほど述べました危惧につながるのですが,被爆証拠を一点で背負ってしまうことが,被爆被害を過小評価させてしまうのではないかということです。

 もちろん,知っている人は知っているのですが,原爆ドームの他にも被爆建物はいくつか存在します。そしてその建物に特有の思いを持っている方々がいらっしゃいます。しかしながら,それらも,それぞれの点として孤立して都市の中に埋没しており,相互のつながりも感じさせません。

被爆遺産の線的特性

 広島平和記念公園の平和記念資料館を設計した世界的建築家である丹下健三氏,(私は先生の最後の建築概論の単位をとっています。)は,「平和の軸線」を提案されました。平和記念資料館を単なる点としての施設としてではなく,公園の外へ向けて,原爆ドームをつなげた方向性を持っています。これが記念館を点として公園の中にシンボル的に留めるだけの他の案に比べて,格段に優れている点としてコンペで優勝し実施案として採用された理由でしょう。

 点にはそこに興味を集中するという幾何学的特性がありますが,線には方向を示すという特性があります。その方向とは「平和に向かって」という願いを込めたものに違いありません。優れた建築家は,単に3次元の建物を立体として再現するだけでなく,社会が進むべき方向性まで示唆できるのです。

被服支廠について考える

 被服支廠の位置は,爆心地から2kmを少し超えたくらいでしょうか?建物は大きく壊れていませんが,鉄の扉が爆風で凹んでいます。爆風と熱線はいかばかりだったでしょう。この距離より外側にいた人,例えば宇品の人たちは,身内を探しに爆心地に向かって歩いたでしょうし,内側にいた人は,安全な場所を求めて爆心地から遠ざかるように歩き,この被服支廠にたどり着いたでしょう。縮景園や比治山も同じように被災者が向かった場所です。ここで力尽きた方も多かったに違いありません。

 原爆ドームとこの被服支廠をつなぐ距離を半径とした範囲に,ほとんどすべての被爆の実態が含まれていると思います。そのことを面的に考える必要があるでしょう。そのことは原爆ドームだけの存在では分かりません。原爆ドームは産業奨励館という産業振興の建物であり,被服支廠は陸軍の軍事施設です。用途こそ違え,ある意味でその当時の建物の持つ意味を象徴するものです。この建物の構造や意匠が建築学的にどれほどの意味があるかは,専門家にお任せするとして,500m続くレンガ壁は,街並みのスケールです。当時の街をリアルスケールで感じ取ることができる唯一の存在だと思います。そのこと一点でも,この建築(街並み)を保存する価値があるのだと思います。まして,爆心地から2kmという被爆地被害を示す全域を表す境界の建築としての意義があります。現在残されている建物全部ではなく,一部残せばいいのではないかという意見もありますが,それは単に予算的制約を優先した考え方です。残されている最大限のボリュームを残すことによって,街並みスケールの保存という意味があります。明治以来の軍都としての広島を象徴する存在を逆転して,平和のための施設として転換することに意味があります。

 極論を言わせていただくと,この被服支廠,そして同じような距離にある比治山の頼山陽文徳殿,さらに被爆樹木群を,原爆ドームの「アディション」として世界遺産追加登録したらどうでしょう。「広島市における被爆の実態を示す面的な被爆遺産群の分布」として。

 悪ノリして提案するのは,頼山陽文徳殿か被服支廠を,爆心地を望む場所で被災者を救済した場所として位置付け,救済・救護そして被爆樹木に関する資料や展示を行う拠点施設として利用するのはどうでしょうか?平和記念資料館は手狭であり,また爆心地に近すぎます。被害の酷さを展示するには向いていますが,救済・救護を訴えるには,心の切り替えができません。戦後の核開発の様相を展示し核廃絶を主張する内容は,それまでに見た展示のリアリティに疲れて,ほとんど頭に入りません。2kmはなれたこちらの場所で心静かに被爆の実相を思い起こし,復興と未来に向けた拠点としたらどうでしょう。原爆ドームと平和記念資料館からこちらを目指して歩いていく距離を体験しつつ,救済と復興と平和を願う距離と時間が必要なのではないでしょうか?そのことは,平和観光として広島市を広範囲に体験する今までと違った視点を与えることにつながると思います。

 この建物を安全な形で補強し,利用・保存するためには,百億円単位の費用がかかります。最近の議論の内容は,遺産的価値は理解できるが,実現する予算の当てがないということに尽きるのではないでしょうか?しかし,昨今のコロナウイルスの社会的影響や経済的被害の大きさを見ると,ほとんど社会的に残らないものに対して,何兆円もの予算が消費されている気がします。私は経済的処置については疎いので,是非この点について政治的な手腕のある方にリーダーシップを取っていただきたいと願っています。

20200501,イギリスの科学雑誌「Impact」に私たちグループの研究紹介が掲載されました。

https://www.ingentaconnect.com/content/sil/impact/2020/00002020/00000003/art00017#

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